加計呂麻島の歴史 - 鹿児島県 奄美の観光スポット 加計呂麻島(かけろまじま)

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加計呂麻島の歴史

加計呂麻島の歴史加計呂麻島の歴史

山に囲まれたすり鉢の底のような平地にある佐知克集落。

シイやガジュマルなどの亜熱帯多雨林に覆われた高さ200mの山々が屏風のように連なり、まるで海に浮かぶ細長い森のように見える島、加計呂麻島(かけろまじま)。
人口約20万人の福岡市西区とほぼ同じ面積でありながら、人口はわずか1400人ほど。そこに住む人々=島人(しまっちゅ)は、30のシマ(=集落)に分かれて暮らしています。

島人は深く水をたたえた入り江の奥の限られた空間の中に生き、豊穣の喜びも死への畏れも自然と共にありました。
不便だからこそ守られるものがあります。加計呂麻島には、今も身近なところに神を感じる暮らしがあるのです。

*島内に周回道路や山越えの道が整備され始めたのも、電気が通ったのも、昭和28年に奄美群島がアメリカ統治下から日本に復帰した後のことです。

加計呂麻島で祀られる神々


上:右手前にアシャゲ、その奥にトネヤが見える阿多地集落のミャー。
下:シマ出身者の寄付で寝泊りのできる建物になったトネヤと、建て替えられたアシャゲ(瀬相集落)。

加計呂麻島のシマの構造は、どこも似ています。

隣ジマとの境の岬の辺りに「グンギン(権現)」という火の神などを祀った拝所があり、浜の外れには墓地があります。シマの中央には「ミャー(宮・庭)」と呼ばれる広場があり、稲作の祭りが行われた「アシャゲ」が建っています。ミャーには隣接してシマの始祖の墓「イべガナシ(イビガナシ)」とネリヤ(竜宮)の神の祭りを行った建物「トネヤ」があります。
ミャーから山に向かって続く細い道は「神道(かみみち)」といい、神様だけが通ることができるとされ、その先にある小高い森が「神山(かみやま)」です。
海に目を転じると、岬の先にはネリヤの神が立ち寄る屹立した瀬「立神(たちがみ)」が見えます。
このようなシマのつくりは、古くからの自然信仰・祖霊信仰をベースとして、奄美が琉球王朝に支配されていた時代から薩摩藩政時代にかけて形作られてきたものです。

琉球王朝は行政の組織とともに「聞得大君(きこえのおおきみ)」を最高位とする、祭祀を行う女性の司祭者「ノロ(神女)」の組織を作りました。琉球には姉妹(オナリ)の霊力が兄弟(エケリ)を守護するというオナリ神信仰があります。国を治める兄を妹の聞得大君がその霊力で護るように、奄美でもノロが大きな権威を持ってシマを護っていたのです。琉球から薩摩支配へ、そして明治へと時代が移っても、祭祀を司るノロの存在は奄美の人々の心の中にあり続けました。

失われた神行事と今も残る信仰


上:歴史を感じさせる昔ながらのイベガナシ(瀬相集落)。
下:神行事のときには集落の奥にあるガジュマルの下からノロが降りてきたと伝えられている(武名集落)。

シマのノロ(神女)は、シマ全体の安寧、五穀豊穣、海路の安全などを祈るいくつもの神行事を行いました。ノロを中心とする「神人衆(かみにんじょ)」は神山で祈った後、ミャーに下り、アシャゲやトネヤで神酒(みき)やご馳走をいただき歌い踊ります。こういった加計呂麻の神行事は平成の時を待たず、阿多地(あだち)集落で行われたものを最後に姿を消しました。

しかし、島人の信仰の中には、今も数多く残るものがあります。

シマの始祖(=イベ)の墓イベガナシは、シマ建加那志(たてがなし)などとも呼ばれ、自然石や塚の形をとっています。それぞれのシマではイベがどのような人物だったのかが言い伝えられ、イべの無いシマでも八月踊りでは「シマのイべガナシ、シマ見守てたぼれ」と、シマの安泰を願い歌われています。

お年寄りのお宅を訪ねると床の間には大工(セク)の神が祀られていたり、加計呂麻島の神々は、今も島人の暮らしの中にその姿を残しています。
今にも神様に出会いそうな大自然の中で、あなたも神秘の島 加計呂麻島をその肌で感じてみてください!
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